ちょっと読んでいて気になったことを即座に書き留めておく必要があると感じたので、これを書きます。
comic新現実 Vol.2、『「忘却の旋律」序論』 (更科修一郎著)についてです。
まず最初に断っておきますが、「忘却の旋律」は第1話を見たきり、その後全く見ていませんので、これに対する論評、意見は全く付けようがありません。
しかし、ナウシカに関して書かれたことについてはコメント可能です。
コミック版風の谷のナウシカの結末 §
コミック版風の谷のナウシカについて、以下のように書いています。
215ページより
(コミック版風の谷のナウシカに対して)そして、地を這う翼なき者となり果てるまで少女(ナウシカのこと)を消費し尽くして--指し示すべき「未来」までも見失った。
これは、よくある意見ではあるものの、突っ込みが足りないという感が否めません。
こんな結末で良いのか、ということは、連載完結、あるいは最終巻の刊行当時に、宮崎駿ネットワーカーFCでも議論がありました。私としては、最初のうちは分からなかったものの、実は非常に思想的に奥深い世界観と未来を提示しているのではないか、ということに気付いて行きました。行きましたが、その詳細は既に忘れてしまいました。何せ、パソコン通信時代の遺産ということになるので、即座に探し出して提示できるものでもないので、具体的にその当時の意見をここに載せることはできません。少なくとも、ナウシカが消費し尽くされたであるとか、未来を見失ったというような見方は、あまりに表面的でありすぎるでしょう。というよりも、古い常識に引っ張られすぎているといった方が良いのかもしれません。
あるいは、あなたが期待したものが提示されなかったからと言って、無いと言ってしまうのは短慮である、と言うこともできるかもしれません。
「忘却の旋律」を見ていないし、熟読もしていないので、記事全体を論評するには不充分ではありますが、全体的に甘い印象を受けるのは、おそらくはナウシカ以外に対する記述にも突っ込みの甘さがあるのかな、という気がしましたが、それは確実かどうか分かりません。
「おたく文化」は戦時下に発生した技術である §
それに続いて掲載されている『「おたく文化」は戦時下に発生した技術である』とする大塚英志さんの「おたく文化の戦時下起源・試論」という記事は、逆に曖昧かつ短い試論に過ぎないにも関わらず、はるかに鋭いという印象を受けました。もっとも、私自身はその意図するところを的確に理解したという自信は全くありません。
ただ、戦時下に発生した技術、というニュアンスは非常に良く分かります。
そして、それは私が意識的に識別して、苦労して中和したり、隔離して独立した存在として扱うために多大な労力を払っているものだろうと推測します。それは、子供の頃から無意識的に刷り込まれてきたものであって、意識を集中しなければ即座に取り込まれてしまう危険性すら感じるものなのでしょう、たぶん。
そして、一般的にオタクと呼ばれる人達は、それに対して無自覚的に取り込まれてしまっている人達なのかもしれません。
根拠もなく勝手に妄言を書き続けるなら、肥大化し続けるガンダム文化に対して、というよりも、無自覚的にガンダムを人生の一部にしてしまっているようなディープなファン層に対して不快感を感じる点も、「戦時下に発生した技術」という用語を用いることで、明確に示せるかもしれません。「戦時下に発生した技術」は、けして存在することも用いることも当たり前ではなく、それを用いないという選択があり得るし、それを用いるとしても様々なメリットとデメリットがありえます。問題は、「戦時下に発生した技術」がメリットもデメリットもある1つの方法に過ぎないという自覚を失い、それが当たり前であると思ってしまうことです。そう思ってしまった瞬間に、無自覚な暴走が始まる危険がある、というか既に暴走している部分あるようで、見ていて気持ちよいものではないと感じられる……のかもしれません。
まあ、このあたりの問題は、もっと詳しい論が出た後で再び考えて見るべきかもしれません。
2004年12月27日追記 §
あとから考えてみると、上の『「おたく文化」は戦時下に発生した技術である』に書いたことは、まったく見当違いのことを言っているような気がしてきました。
もっと違う別のことですね。たぶん。